![]() ◆ワークショップ フェスティヴァルのテーマが Musica Britannica 英国の音楽ということで、今回のレベッカのワークショップでも英国のポリフォニーが扱われることになった。私たちが演奏した曲は2曲、オールド・ホール写本にあるアレン Aleyn のグロリアと、イートン・コワイヤ・ブックにあるデイヴィー Davy のマタイ受難曲。 カペラにとっては全く新しいレパートリーなので、これはいい勉強になるだろう、ということだったのだが勉強どころか、実にすばらしい曲で大変おもしろかった。3日目に行われた演奏はレベッカの力強い指導のおかげもあって、なかなか感動的なものになったと思う。 ![]() 長三度の愉悦 去年のアントワープ便りでは長3度の危険について述べた。ところが同じ15世紀ではあっても、英国の音楽では純正にとるべき長3度がこの時代の英国人の音に対する感性の根幹にあるようだ。受難曲の最初のポリフォニーの部分からもう長3度で始まる。もちろん、多声音楽の旋律のからみは随所にあって、受難の物語のそれぞれの場面で言葉の意味を際立たせる動きはつくっている。しかし、低音を基盤にした明るい和声が英国の音楽をある意味で歌いやすく、楽しいものにしている。 もちろん、受難曲はドラマに満ちている。そしてデイヴィーの受難曲はその劇性を音によって表現したもっとも初期の作品に属するだろう。だから、同じ長3 度でもその意味は様々だ。「十字架につけろ」の長和音と百卒長「まことにこの人は神の子」の長和音はおのずと違った響きを感じさせるのであり、当然そのように意識して演奏する。歌っていてそれはすばらしい感覚で、フランドルの曲の時には見せないような声をカペラのメンバーもつい出してしまったりするほどだった。 ただ、もしジョスカンが受難曲を書いていたら、ぜんぜん違う旋法を使っていただろうな、とは思った。まあ、あたりまえだが。 英国式ラテン語の発音 ワークショップで学んだことは多かったが、結構苦心したのが英国式のラテン語の発音だった。 歴史的にみれば、ラテン語の発音に「標準」あるいは唯一の正しい発音、などというものは存在しないのであり、各国、時代によって発音の仕方、イントネーションなどが大きく変わることは明らかである。現代であっても、同じく正しい「ヴァチカン式・イタリア式」の発音をしている、と称しているたとえばドイツ人とフランス人の神父様が典礼の文章を読むのを聞くだけで、「正解」は人によって違うらしい、と思わざるを得ないが、国別、時代別に実証的に詳しく述べている研究書を読んでみると、その多様性に驚かされる。いずれにせよ、それぞれの時代、地域の日常的な母国語がラテン語の発音を決定づけていることは疑うことができない。 発音とは言語を音にする仕方であり、それはしたがって、声楽の本質的な要素のひとつである。旋律があってそれに歌詞をつける、のではなく、言語の響きがあって、そこから旋律が生まれてくる。もちろん、ルネサンスの写本から作曲者の意図を汲み取ることは容易ではないし、個々の旋律と歌詞の関係が常にはっきりしているわけではない。同じ旋律線をまったく異なる言葉で歌うこともある。しかし、言語的視点から音楽をとらえたとき、そして作曲者や歌手がしていたと考えられる発音の仕方で実際に歌ってみたときに、それぞれの言葉の特性が曲の作りに大きく作用していると思わざるを得ないことが多い。 私たちは15世紀フランス式の発音でフランス・フランドルの音楽を歌ってきてこのようなことを確信するにいたっている。今回はカペラにとっては初めての英国式ラテン語ということで、文献を読み直して、それぞれの歌手に徹底できるよう相当練習を積んで出かけた。基本的なところは大体準備していった通りでよかったのだが、さすがに英語を母国語とするレベッカのアイデアは私たちの思いもよらないところに発展し、私たちは戸惑いつつもさらに深く学ぶことができた。 子音をドイツ語などと同様、強く外に吐き出すように発音するところが、まずフランス風の軽くやわらかい子音に慣れ親しんでいるカペラとしては大変やりにくい。しかし何といっても面倒なのが、変幻自在の母音だ。アクセントのある音節とない音節で、単語の中か語尾かによって、また長母音か短母音かによってそれぞれ発音が異なる。さらに厄介なのは、15世紀から16世紀にかけて英語の発音が大きく変化していったということがあり、15世紀前半の曲と1500年前後の曲を歌うのに発音を変えなければならないということだ。例えば gratia は(当然正確には表せないが便宜上カタカナで記してみると)「グラーシア」から始まり、「ラー」の母音が英語独特の「エ」に近い開いた音(cat, sad, etc.)に変化、16世紀にはほとんど「グレイシア」になっていく。同様に「マリア」は「マライア」、「サルヴェ・レジーナ」は「サルヴィー・レッヂャイナ」。 そして個々の母音、子音をどう発音するかということ以上に大事なのは、イントネーション、つまり文章全体の抑揚、流れ方だ。フランス語がしり上がりに鼻に抜けながらリエゾンし、つながって流れていくのに対して、英語は響きの表裏、強弱をはっきりつけながらリズミカルに弾んでいく。それを感じながら歌ってみると、音楽が水を得た魚のように生きてくるのがわかって、とても楽しい。 ![]() レベッカの流儀 古い音楽の演奏法については、わからないことのほうが多いといえるだろう。もちろん発音もその例外ではない。わかっていることから類推しながら最善を尽くすしかない。とはいえ言葉の場合は同じ民族が現在も500年前とほぼ同じ言語をしゃべりつづけている、という利点がある。ラテン語を英語風に発音するとき(危険は承知のうえで)ある程度参考にしていいのは、ラテン語から派生した英単語が現在どのように発音されているかということだ。 ワークショップの間に、レベッカがある英語の単語を思い出して、ラテン語の発音を修正したことが何度かあった。実際に口に出して発音してみながら、うん、この感じに違いない、と判断していく。milites は military から推測して、「マイリテス」ではなく「ミリテス」(ただしすべての i は sit のようにいくらか曖昧な音になる)、vinum は wine があるので「ヴァイヌム」。基本的な原則はあるのだが、このように現代英語から、あるいは英語を母国語とする人の言語感覚から対応していったほうがいいケースもある。 レベッカは何か新しい発見をすると、練習中だろうが本番直前だろうが、よりよい方にどんどん変えていく。特に言葉の多い受難曲は大変。3日間のレベッカとのセッションの後に本番を歌わなくてはならなかった二人のエヴァンジェリストにとっては試練となってしまった。 言葉だけではなく、もちろん音楽自体、歌いながら体がどう感じていくかをレベッカはとても大事にする。音楽史的・言語学的知識を出発点としながらも、楽譜や言葉、その意味、声・息・体の使い方、アンサンブルしたときの響きあいから音楽の本質を一人一人が感じとり深めていく、そのプロセスはすばらしい。彼女自身を含めてみんなが成長し、変化していく。その変化は、実はより自然な状態への回帰にほかならない。自然になることによって本質的になっていく。その都度新しい発見をしながら本来の姿に帰っていく。その作品の本来の姿、歌う人の体と意識の自然な状態。だから「どう感じるか」が大切だし、そこに拠って立つことができるのだ。 一般的にクラシックの声楽家は、オペラ劇場やコンサート・ホールで、やわらかく充実した大きな響きで歌えるように、さまざまなテクニックを身につける。しかし、古い音楽の演奏に際しては相当違ったアプローチが必要だ。それは「より自然な状態」になろうとすることであるという気がする。 今回言葉に関連して、レベッカがカペラの歌手と取り組んだひとつに視点に口の使い方があった。クラシックの歌手といってもその人によってに大きな違いはあるが、普通は発声のために口、唇やその周辺の動きをいろいろと工夫する。それは歌うための工夫であり、普通に会話するときには決してしないことも多い。しかしまろやかで豊かな音を出すためには効果的なことも、自然な言葉の表現を阻害してしまう場合もある。そしてそれは体・息の使い方とも関連しており、ある種の力み、緊張を生み出し、言葉の流れ、そしてそれを土台にできている古い音楽の「自然な」動きを止めてしまう。 会話をするときの自然な状態に口の動きを戻すこと、そして誇張せず、萎縮もしない自然な息使いを可能にするように、体を柔軟な状態にしておくこと。そのように心も自然に、柔軟に、そしてオープンにすること。そうすると息は吸い込まなくても入ってくる。絞りださなくても声は響いてくる。信頼して待つ、もうその瞬間に音楽は天から下ってきて、そして流れ始める。 ![]() つづき #
by fons_floris
| 2002-09-01 00:00
| カペラ
デジタルな音楽、異次元空間をつなぐ音楽
プレゼンテーションでは、一つのグループが「最優秀」として選ばれ、CDの製作を始めとした今後の演奏活動への支援が提供されることになっている。今回選ばれたのはアメリカの歌手3人からなるアンサンブルで、高い技術と完璧な仕上がりで他を圧倒していた。本番の演奏をそのままCDにしても売れることだろう。 カペラは選ばれなかった。しかし、感動してくれた人たちの励ましはいただいた。ドイツから来ていた「審査員」の一人は、8団体中最後に演奏したカペラの 1曲目を聴いたときに、選ばれるのはこの団体だ、と確信していたと言ってくださった。彼にとっても問題だったのは、その後の演奏曲中に音程が定まらない部分、パート内で音程がずれてしまった所があったことだった。「もしマイクの後ろでこの演奏を録音する立場にあったとしたら」という視点から、彼もアメリカのグループを推すことになった。 5人の「審査員」の全員と演奏後にゆっくり話したが、その評価の内容は人によってかなり異なり、おかしいようだった。一つのポイントには歌手の動きがあった。同じカペラの歌手でも、他のグループや独唱者として歌うときとは違う発声、音楽の仕方をするので(日本の歌手は生活のためにもあらゆる仕事を引き受けなくてはならない)、その助けになるように、またこのような歌い方をしているとある程度自然に体や手が動いてしまう。もちろん現代の普通の演奏会ではヨーロッパでも歌手は大抵ほぼ直立不動で歌う。それに馴れた聴衆にカペラの動きは奇異に見えるだろう。太極拳の様だとの評さえあった。しかしそれが音楽に合ってよかったと思う人と、目ざわりに思う人がいた。また、レベッカの影響が強いので、特にレベッカの音楽を評価していない人は「レベッカ的過ぎる」と言ったが、他の人は、レベッカ的だが独自の響きがあってそこが良かった、と言ってくれた。 声を張り上げない歌い方について批判的な評者も、残響の多い教会なら問題ないだろうということだった。会場のチャペルは16世紀のすばらしい作りだが、小さい場所で、演奏会場としてしつらえられていたせいもあり、残響が少ない。もちろんそのような状況に合わせて歌い方を工夫するべきなのだが、今回は対応しきれなかった。反省すべき点であるには違いない。しかし歌い方を根本的に変えることはできない。真価を発揮できるような場所で歌うことが重要であることには変わりない。だからコンサート・ホールをまわるような企画はカペラはあまり好まない。 音程が狂ったことは弁解の余地がないし、改善するべきことだが、コーチングを含めて、欧州各国の音楽関係者からのさまざまな指摘を総合すると、やはり、コンサート・ビジネスとして成り立たせる、お客様を楽しませる、CDにして売れる、といったようなことためのアドヴァイスという意味合いが、その背後に色濃く感じられた。もちろん、音楽を続けていくためにとても重要な要素だ。カペラは宗教団体でも慈善事業でもない。だが、どうも何か違う、気をつけないと飲みこまれてしまう、本質を見失ってしまう、という気持ちが強く残った。何のためにカペラの音楽をやっているのか、それを忘れてはいけない、と自分に言い聞かせ続けよう。人には聞こえない天体の音楽を追い求め続けるのは容易なことではないのだ。 「CDにするとしたら」という点にも実は引っかかっている。もちろん音程がずれては売り物にならないし、CDでなくても容認できる事態ではない。しかしながら、カペラとして1枚目のCDも出していながらこう言うのもなんだが、デジタル文化の弊害はないのだろうか。 音楽祭期間中あるコンサートに10分ほど遅れて着いたことがあった。放送局も入っているし、遅れたほうが悪いのだから、と言われて門前払いを食らってしまった。遅れた人が入れないような会場作りにしているほうが悪い、と思ったし、同業者としてこういう対応は理解できない。後で音楽祭主催者のひとりである知人にこの話をしたら、最近ベルギーではこういうことはとてもうるさくなっている、何万円もするオペラ公演でも数分遅れただけで入れずにチケットが無駄になることがある、その理由は、時間どおりに来た観客が煩わされずに完璧な状況で音楽を楽しむ権利があるから、ということだという。時間通りに来て、ゆっくり音楽を楽しもうとしているお客さんにとって当然の要求だ。しかし、他の見方もあるのではないだろうか。大事なものを忘れてはいないだろうか。家のリスニング・ルームでノイズの全くないCDを楽しむという習慣を、演奏会場にも持ち込んでいるのではないか。そのことによって、ノイズ以上に切り捨てられてしまっているものはないか。 演奏会が一種の社交の場でもあった19世紀の会場の雰囲気はどんなだっただろう。オペラハウスでは序曲が終わったころぞろぞろとお客が集まるなんていうこともあったろう。それよりも、15世紀の教会音楽が演奏される典礼の場の状況はどうだったか。大教会に付随するサイド・チャペルで行われた「サルヴェの祈り」のような私的な典礼であっても、とおまきに見物・お祈りする人の群がりがあったことは容易に想像できる。そのような典礼の後にはきまって慈善事業として食料などが無料で配られたからだ。教会前の広場からは物売りの喧騒が聞こえてきただろうし、典礼に合わせて、あるいは無関係に教会の塔からは鐘の音がガンガン聞こえてくる。教会の向かいにそびえる鐘楼ではカリヨンがメロディを奏でている。聖歌隊が歌っている間祭壇前の司祭はぶつぶつと祈りの文句を唱えている。お香を炊くたびにがちゃがちゃと鎖があたる音がする。 そして音楽はただ鑑賞されるためだけにあるのではなく、年間の暦、季節ごとの行事に密接に関連した生活の中で欠かせない多くの要素の一つだったし、特に宗教音楽は人々の切実な魂の願いを神に届ける道具だった。有名なファン・アイク兄弟によるヘントの「子羊の礼拝」を始めとする15世紀フランドルの祭壇画には、聖人たちが当時流行した衣装をまとって描かれている。天上のエルサレムを表した背景の風景にある街の様子は、どうみても、ヘントやブリュッヘに今も残されている中世フランドルの街並みそのものだ。天使たちが奏でる楽器は当時使われていたものを忠実に描写したものだし、絵の両端には手を合わせて拝む寄進者の姿が添えられている。しかしすべてはもちろん理想化され、美しい色彩で現実離れした構図に収まっている。祭壇画はその前で礼拝する人々、同時代の風景、そしてそこで行われている典礼、音楽を呑み込んで天界へとつなぐ魔法の扉のように見える。同じように、高度に訓練された歌手たちの歌うポリフォニーは、天使たちの声を地上に具象化するもの、あるいは現実の音によって祭壇の前にひざまづく人々の魂を天界へと高める、魔法の乗り物だっただろう。 個室でデジタルな音を楽しむ状況とはかけ離れている。だが、当時と同様の役割を、この音楽が現代においても担えると、私は確信している。生活や宗教・文化の形態は相当異なっても、地理的・時代的にフランドルからは遠い現代日本の大都市のど真中においても。 ![]() カペラ・プラテンシスとレベッカ 霊性の香りに満ちた音楽と、「この世」がうまく折り合わない実例に出くわすことになってしまった。他でもない恩師レベッカ・ステュワートが創立し育ててきた声楽アンサンブル「カペラ・プラテンシス」が、レベッカと手を切ることになってしまったのだ。アントワープで日本のカペラのみんなと聴いた演奏会が、レベッカ最後の演奏会だったことを打ち上げのときにメンバーから聞いた。 最後の演奏会は、レベッカの音楽を精一杯表していることはわかったが、精彩に欠け、疲れのみえる演奏だった。そのような状況の中でいい演奏などできるはずがない。レベッカは全力を振り絞っていたと思うが、いつも教育に全身全霊をささげるがために、自分を省みずに使いすぎてしまう疲れ気味の彼女の声だけが、何とかいい音楽をしようと浮いてしまっていて、他の歌手はそれに応えきれていないという印象だった。 レベッカは妥協しない。興行的にうまくいくために音楽への取り組みを変えることはしない。メンバーひとりひとりに技術的、精神的なアプローチを徹底させようとする。いわゆる美声で音程がそろっているだけのような音楽に、ほんの少しでも傾きそうな気配が感じられると厳しい口調で注意する。愛の化身のような人だけに、その言葉は歌手にとって重い意味を持つ。だから、時間もかかる、エネルギーもいる、誰か都合が悪かったら代わりの歌手をぽんといれるようなことは絶対にできない、要するに興行的には割が合わないのだ。プラテンシスの人たちはむしろ今まで良くやってきたと褒めてあげるべきなのだろう。プラテンシスの「経営陣」が新しくなったこともあり、いよいよもうやっていけない、ということになってきたのだという。 打ち上げの際、会場近くの広場にテーブルを広げたカフェでおいしいベルギー・ビールを飲みながら、レベッカはしきりに日本から来た私たちと話をした。そして夜もふけて別れたとき、私たちを見送って自分の荷物を片手に持ったまま、いつまでも広場に立って手を振っていた。「あなたたちには迷わずにこの道を進んでほしい」という願いを託しているかのように。 つづき #
by fons_floris
| 2002-09-01 00:00
| カペラ
◆この世の音楽、天体の音楽
ジルとケース、カペラのプレゼンテーション カペラのアントワープ旅行のもうひとつの目的は、世界中から選ばれた8つの古楽アンサンブルが欧米の音楽関係者を前に演奏するプレゼンテーションに参加することだった。その本番に先立つ2日間、各アンサンブルは古楽界を代表する歌手の一人ジル・フェルトマンと、ユニークな活動を続けるリコーダー奏者ケース・ブッケ(このふたり、いつのまにか夫婦になっていた)にコーチング、つまりいわゆる公開レッスンを受けた。彼らの演奏はよく知っていたし、大体どんな反応をするか予測はついていた。そして実際、思っていたような指摘もだいぶあった。 ともあれ、ふたりともカペラの演奏を大変高く評価してくれてうれしかった。古楽の演奏法は多様で、まったく正反対のアプローチも可能だろうが、カペラのやり方は、それとして徹底しており、強い説得力をもっている、とてもインプレッシブである、と口をそろえて言ってくれた。 ジルがあげた批判点としてはまず、長いフレーズ感は出ているものの、視覚的にも聴いた感じでもタクトゥスが強すぎる、つまり拍子を取りすぎているということだった。これは、特に音の動きが複雑になってくると何人かの歌手が手でタクトゥスをとり始めることからきており、確かに改善すべき点だった。 もう一点は発音と関連した発声の仕方で、とてもネイザル、つまり鼻音が強いということに疑問を感じるということだった。フランス風の発音も首尾一貫しており、すべての単語を理解することができたし、響きがアンサンブルでとてもよくそろっているし、とても説得力があるが、そのような音で歌っていたという証拠はない。もっとも、そうではないという証拠もないのだが、ということだ。普通の声楽家のアンサンブルにはない耳慣れない響きなので、違和感を覚える、ということはあるだろう。 私は、これが言葉を生かした自然でフランス的で、旋法の音楽にふさわしい響きであることを確信している。メンバーの一人で近代フランス歌曲の専門家の根岸君も別な視点から同様な結論に達している。また、中世・ルネサンス時代のさまざまな楽器を聴いてみると、私たちの発声との類似を容易に見出すことができるだろう。ジルがこれは少し後の時代のものだが、と断って引き合いに出した文献の証言には、鼻音を強く歌うべきでない、という指示があるという。私は、それはむしろそれ以前の歌手たちがそのように歌っていた証拠にもなるのではないか、と反論したが、もちろん、はっきりしたことはわからない。はっきりしているのは、この響きでこの種の音楽を歌って感動してくれる人たちがいることであり、説得力がある、とジルたちも認めてくれたことである。 この響きは、倍音の関係もあるが、明らかに上に向かっていく響きだ。大ホールの聴衆を想定した歌い方ではない。そうではなく、優雅に精神性を表現する調和の音であろうとする。だから、旋律が高く舞い上がってもその高みで声を張り上げないで、謙虚に低声との音程関係で純正になろうと声をあわせ、リエゾンしながらさらに先に向かって成長しながら流れていこうとする。 それが、ジルのもう一つの批判点でもあった。このような歌い方は声の「自然な」動きに反する、人間の本性に逆らった表現だというのである。特に女声の声の使い方が疑問で、声をフルに使っていないという。ケースは別の観点から、言葉の意味をもっとはっきり、ダイナミックに表したほうがいい、と指摘した。こういうことを彼らが言うかもしれないとは予測していた。彼らのどちらかというとバロック的、劇(場)的、イタリア的な演奏から、このような感想はもっともだし、一般的にはこのような歌い方には欲求不満を感じる人もいることだろう。もちろん、いろいろなスタイルをよく知っている知識も経験豊かな人たちだから、自分と違うものはだめ、というような単純な判断はしないが(だからこそカペラの演奏も高く買ってくれたのだが)、そこには音楽に対する取り組み方の根本的な違いがあることは否めない。 レベッカから学んだ「自然」に回帰する音楽は、そのことによって「人間の本性」のあるべき真の姿、さらにはそれを超えたところにあるものに近づこうとするものなのだ。直接的に官能に強く訴えることではなく、お香のように天に昇ることを目指した表現なのだ。確かに、ケースが言っていたように、ジョスカンも当時のほかの音楽家たちも生身の人間であり、決して聖人ではなかった。音楽家には聖職者が多かったが、それでも路上の喧嘩で流血騒ぎをおこしたり、いかがわしい女性をいつまでも家に住まわせていることで教会の参事会から咎められたというような記録もある。また、安月給に頭に来て職務を怠り、アルバイトに他の教会のミサに歌いに行ったり、ボール遊びに精を出したりして、裁判沙汰になるなんてこともあったらしい。だからこのような宗教音楽でも、そのような人間性にふさわしい表現をするべきだとは、到底考えられない。人間味豊かな作曲家たちの神聖な部分が湧き出して結晶化したに違いないと思わせる作品は、15世紀フランドルの宗教音楽には多くある。そのような音を通して、日々出くわすあたりまえな人間の感情ではなく、それらを濾過したときに開けてくる超越的な次元につながろうとするのが、カペラの目指す音楽なのだ。 もっとも、コーチングの際に「とにかく言葉の表現をした演奏をしてみて」ということで、試しにある楽章をちょっと大げさに歌ってみたら、お客さん拍手喝采。本番の演奏は特に変わったことはしなかったが、丁寧にいつもの通りに歌い、コーチングのときよりはカペラらしいよい演奏になった。するとジルたちの感想は、「あの時からとても変わった、本当にずっとよくなった、すばらしい!」だって。まあそんなもんなんだよな。 ![]() つづき #
by fons_floris
| 2002-09-01 00:00
| カペラ
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