【古楽院】積み重ねられた「祈り」
c0067238_2353589.jpg2月11日(金・祝)、「テネブレの祈り」というキリストの受難を黙想する祈りの会が開催されました。花井哲郎が主催あるいは関連する演奏団体による、ビクトリア没後400年を記念するプロジェクトの一環となるものです。

聖歌を奉唱したのは、花井哲郎が指導するフォンス・フローリス古楽院講座の受講生たち。その中の一人、岩崎清さんに、レポート記事を書いていただきましたので、どうかご覧ください。

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日頃から花井哲郎先生の熱心なご指導をいただいている私たちフォンス・フローリス古楽院講座受講生は、2月11日に東京・広尾の聖心女子大学大聖堂において、一年間にわたる研鑽の成果の披露を兼ねて、聖金曜日の聖務日課「テネブレの祈り」を奉献させていただいた。

今回の聖務日課は、今年没後400年を迎えたスペインの作曲家トマス・ルイス・デ・ビクトリア(1548〜1611)の業績を記念して、ポリフォニーで演奏される楽曲はすべてビクトリアの手になる「聖週間聖務日課曲集」より採択されている。




キリスト教会、なかんずくカトリック教会の伝統において、千数百年にわたり営々と続けられてきた聖務日課とは何か。それはひとことでいえば、積み重ねられた「祈り」である。私たちは通例祈りというときに、自分の願望や悩みを神に訴える個人的な宗教行為をまず考えるが、聖務日課の祈りは、使徒信条の言う「聖なる公同の教会」の“わざ”としての祈りである。

「教会で祈る」ではなく「教会が祈る」とはどういうことなのか。フランス語の「教会 église」の語原になっているギリシャ語「エクレシア」は、「群れ、集団」を意味する。つまりそれは「信じる者の群れ」が、みな心をひとつにして、イエス・キリストの十字架の死を深く自分の内で受け止め、共に神を黙想する「祈り」なのである。

「聖金曜日の聖務日課」は全体で30の部分に分かれており、詩編朗唱が10編、聖書朗読が9編、ポリフォニーで演奏されるレスポンソリウム(答唱)9編、それと賛歌とアンティフォナで構成されている。私たちはそれを、8つの講座クラスと数名の独唱者で分担して唱和・演奏した。これらはそれぞれのクラスで1年間かけて準備し、花井先生のご指導のもと練習を重ねてきたものだ。

私たち受講生は、皆がキリスト信者というわけではない(むしろ信者は少ないかもしれない)。しかし信仰の有無にかかわらず、聖務日課を構成するグレゴリオ聖歌、詩編朗唱、そしてビクトリアの楽曲のもつ高邁な精神性と、魂の真実にふれる「祈り」の情熱を、深い感動とともに分かち合うことができたのではないかと、報告者は思っている。

一年間の講座の過程において、古楽院の各クラスは自分たちが担当する部分のみに集中してきた。ここに時至ってそれらが一つになり、各部分の総和をはるかに超えた「全体性」を獲得できるかが、音楽的な意味での花井先生の大きな“賭け”ではなかったかと思う。その賭けが成功したか否かは、先生と、参列してくださった聴衆の皆さんの評価にゆだねる他はない。

しかし、これまで個々のパーツにしか見えていなかったものが、この日はじめて、ひとつの壮大な魂の叙事詩として----あのバッハの偉大な受難曲群に優るとも劣らない、圧倒的なスケールと質をもって----演奏者である私たち自身に迫ってきたことは、事実としてここに証言しておきたい。

c0067238_2393256.jpg聖務日課の最後は、キリストの死の直後に起こったとされる天変地異を象徴する、ブリキの板を使った大きな衝撃音をもって幕を閉じる。祭壇のろうそくが1本ずつ消され、照明も消されてほぼ真っ暗に(テネブレとは「暗闇」の意味)なった聖堂に、雷鳴のごとく突如響きわたる大音声。その残響はしだいに弱まり、かすかに残り、そして消えていく。

しかし私たちの心に残った筆舌に尽くしがたい余韻は、沈黙のうちにそのまま持ち帰られた。その余韻は、一部始終を見届けたあのローマの百人隊長が感激のあまり思わず発した言葉と、精神の本質において同じであると思われたのであった。
----「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った」(マタイによる福音書 27章54節:『聖書』新共同訳による)

(岩崎清)
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by fons_floris | 2011-02-14 23:00 | 古楽院
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