アントワープ便り II (2)
◆この世の音楽、天体の音楽

ジルとケース、カペラのプレゼンテーション
 カペラのアントワープ旅行のもうひとつの目的は、世界中から選ばれた8つの古楽アンサンブルが欧米の音楽関係者を前に演奏するプレゼンテーションに参加することだった。その本番に先立つ2日間、各アンサンブルは古楽界を代表する歌手の一人ジル・フェルトマンと、ユニークな活動を続けるリコーダー奏者ケース・ブッケ(このふたり、いつのまにか夫婦になっていた)にコーチング、つまりいわゆる公開レッスンを受けた。彼らの演奏はよく知っていたし、大体どんな反応をするか予測はついていた。そして実際、思っていたような指摘もだいぶあった。
 ともあれ、ふたりともカペラの演奏を大変高く評価してくれてうれしかった。古楽の演奏法は多様で、まったく正反対のアプローチも可能だろうが、カペラのやり方は、それとして徹底しており、強い説得力をもっている、とてもインプレッシブである、と口をそろえて言ってくれた。
 ジルがあげた批判点としてはまず、長いフレーズ感は出ているものの、視覚的にも聴いた感じでもタクトゥスが強すぎる、つまり拍子を取りすぎているということだった。これは、特に音の動きが複雑になってくると何人かの歌手が手でタクトゥスをとり始めることからきており、確かに改善すべき点だった。
 もう一点は発音と関連した発声の仕方で、とてもネイザル、つまり鼻音が強いということに疑問を感じるということだった。フランス風の発音も首尾一貫しており、すべての単語を理解することができたし、響きがアンサンブルでとてもよくそろっているし、とても説得力があるが、そのような音で歌っていたという証拠はない。もっとも、そうではないという証拠もないのだが、ということだ。普通の声楽家のアンサンブルにはない耳慣れない響きなので、違和感を覚える、ということはあるだろう。
 私は、これが言葉を生かした自然でフランス的で、旋法の音楽にふさわしい響きであることを確信している。メンバーの一人で近代フランス歌曲の専門家の根岸君も別な視点から同様な結論に達している。また、中世・ルネサンス時代のさまざまな楽器を聴いてみると、私たちの発声との類似を容易に見出すことができるだろう。ジルがこれは少し後の時代のものだが、と断って引き合いに出した文献の証言には、鼻音を強く歌うべきでない、という指示があるという。私は、それはむしろそれ以前の歌手たちがそのように歌っていた証拠にもなるのではないか、と反論したが、もちろん、はっきりしたことはわからない。はっきりしているのは、この響きでこの種の音楽を歌って感動してくれる人たちがいることであり、説得力がある、とジルたちも認めてくれたことである。
 この響きは、倍音の関係もあるが、明らかに上に向かっていく響きだ。大ホールの聴衆を想定した歌い方ではない。そうではなく、優雅に精神性を表現する調和の音であろうとする。だから、旋律が高く舞い上がってもその高みで声を張り上げないで、謙虚に低声との音程関係で純正になろうと声をあわせ、リエゾンしながらさらに先に向かって成長しながら流れていこうとする。
 それが、ジルのもう一つの批判点でもあった。このような歌い方は声の「自然な」動きに反する、人間の本性に逆らった表現だというのである。特に女声の声の使い方が疑問で、声をフルに使っていないという。ケースは別の観点から、言葉の意味をもっとはっきり、ダイナミックに表したほうがいい、と指摘した。こういうことを彼らが言うかもしれないとは予測していた。彼らのどちらかというとバロック的、劇(場)的、イタリア的な演奏から、このような感想はもっともだし、一般的にはこのような歌い方には欲求不満を感じる人もいることだろう。もちろん、いろいろなスタイルをよく知っている知識も経験豊かな人たちだから、自分と違うものはだめ、というような単純な判断はしないが(だからこそカペラの演奏も高く買ってくれたのだが)、そこには音楽に対する取り組み方の根本的な違いがあることは否めない。
 レベッカから学んだ「自然」に回帰する音楽は、そのことによって「人間の本性」のあるべき真の姿、さらにはそれを超えたところにあるものに近づこうとするものなのだ。直接的に官能に強く訴えることではなく、お香のように天に昇ることを目指した表現なのだ。確かに、ケースが言っていたように、ジョスカンも当時のほかの音楽家たちも生身の人間であり、決して聖人ではなかった。音楽家には聖職者が多かったが、それでも路上の喧嘩で流血騒ぎをおこしたり、いかがわしい女性をいつまでも家に住まわせていることで教会の参事会から咎められたというような記録もある。また、安月給に頭に来て職務を怠り、アルバイトに他の教会のミサに歌いに行ったり、ボール遊びに精を出したりして、裁判沙汰になるなんてこともあったらしい。だからこのような宗教音楽でも、そのような人間性にふさわしい表現をするべきだとは、到底考えられない。人間味豊かな作曲家たちの神聖な部分が湧き出して結晶化したに違いないと思わせる作品は、15世紀フランドルの宗教音楽には多くある。そのような音を通して、日々出くわすあたりまえな人間の感情ではなく、それらを濾過したときに開けてくる超越的な次元につながろうとするのが、カペラの目指す音楽なのだ。
 もっとも、コーチングの際に「とにかく言葉の表現をした演奏をしてみて」ということで、試しにある楽章をちょっと大げさに歌ってみたら、お客さん拍手喝采。本番の演奏は特に変わったことはしなかったが、丁寧にいつもの通りに歌い、コーチングのときよりはカペラらしいよい演奏になった。するとジルたちの感想は、「あの時からとても変わった、本当にずっとよくなった、すばらしい!」だって。まあそんなもんなんだよな。

c0067238_20364874.jpg8人の聖人像と、8人の……???

つづき
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# by fons_floris | 2002-09-01 00:00 | カペラ
アントワープ便り II (3)
デジタルな音楽、異次元空間をつなぐ音楽
 プレゼンテーションでは、一つのグループが「最優秀」として選ばれ、CDの製作を始めとした今後の演奏活動への支援が提供されることになっている。今回選ばれたのはアメリカの歌手3人からなるアンサンブルで、高い技術と完璧な仕上がりで他を圧倒していた。本番の演奏をそのままCDにしても売れることだろう。
 カペラは選ばれなかった。しかし、感動してくれた人たちの励ましはいただいた。ドイツから来ていた「審査員」の一人は、8団体中最後に演奏したカペラの 1曲目を聴いたときに、選ばれるのはこの団体だ、と確信していたと言ってくださった。彼にとっても問題だったのは、その後の演奏曲中に音程が定まらない部分、パート内で音程がずれてしまった所があったことだった。「もしマイクの後ろでこの演奏を録音する立場にあったとしたら」という視点から、彼もアメリカのグループを推すことになった。
 5人の「審査員」の全員と演奏後にゆっくり話したが、その評価の内容は人によってかなり異なり、おかしいようだった。一つのポイントには歌手の動きがあった。同じカペラの歌手でも、他のグループや独唱者として歌うときとは違う発声、音楽の仕方をするので(日本の歌手は生活のためにもあらゆる仕事を引き受けなくてはならない)、その助けになるように、またこのような歌い方をしているとある程度自然に体や手が動いてしまう。もちろん現代の普通の演奏会ではヨーロッパでも歌手は大抵ほぼ直立不動で歌う。それに馴れた聴衆にカペラの動きは奇異に見えるだろう。太極拳の様だとの評さえあった。しかしそれが音楽に合ってよかったと思う人と、目ざわりに思う人がいた。また、レベッカの影響が強いので、特にレベッカの音楽を評価していない人は「レベッカ的過ぎる」と言ったが、他の人は、レベッカ的だが独自の響きがあってそこが良かった、と言ってくれた。
 声を張り上げない歌い方について批判的な評者も、残響の多い教会なら問題ないだろうということだった。会場のチャペルは16世紀のすばらしい作りだが、小さい場所で、演奏会場としてしつらえられていたせいもあり、残響が少ない。もちろんそのような状況に合わせて歌い方を工夫するべきなのだが、今回は対応しきれなかった。反省すべき点であるには違いない。しかし歌い方を根本的に変えることはできない。真価を発揮できるような場所で歌うことが重要であることには変わりない。だからコンサート・ホールをまわるような企画はカペラはあまり好まない。
 音程が狂ったことは弁解の余地がないし、改善するべきことだが、コーチングを含めて、欧州各国の音楽関係者からのさまざまな指摘を総合すると、やはり、コンサート・ビジネスとして成り立たせる、お客様を楽しませる、CDにして売れる、といったようなことためのアドヴァイスという意味合いが、その背後に色濃く感じられた。もちろん、音楽を続けていくためにとても重要な要素だ。カペラは宗教団体でも慈善事業でもない。だが、どうも何か違う、気をつけないと飲みこまれてしまう、本質を見失ってしまう、という気持ちが強く残った。何のためにカペラの音楽をやっているのか、それを忘れてはいけない、と自分に言い聞かせ続けよう。人には聞こえない天体の音楽を追い求め続けるのは容易なことではないのだ。
 「CDにするとしたら」という点にも実は引っかかっている。もちろん音程がずれては売り物にならないし、CDでなくても容認できる事態ではない。しかしながら、カペラとして1枚目のCDも出していながらこう言うのもなんだが、デジタル文化の弊害はないのだろうか。
 音楽祭期間中あるコンサートに10分ほど遅れて着いたことがあった。放送局も入っているし、遅れたほうが悪いのだから、と言われて門前払いを食らってしまった。遅れた人が入れないような会場作りにしているほうが悪い、と思ったし、同業者としてこういう対応は理解できない。後で音楽祭主催者のひとりである知人にこの話をしたら、最近ベルギーではこういうことはとてもうるさくなっている、何万円もするオペラ公演でも数分遅れただけで入れずにチケットが無駄になることがある、その理由は、時間どおりに来た観客が煩わされずに完璧な状況で音楽を楽しむ権利があるから、ということだという。時間通りに来て、ゆっくり音楽を楽しもうとしているお客さんにとって当然の要求だ。しかし、他の見方もあるのではないだろうか。大事なものを忘れてはいないだろうか。家のリスニング・ルームでノイズの全くないCDを楽しむという習慣を、演奏会場にも持ち込んでいるのではないか。そのことによって、ノイズ以上に切り捨てられてしまっているものはないか。
 演奏会が一種の社交の場でもあった19世紀の会場の雰囲気はどんなだっただろう。オペラハウスでは序曲が終わったころぞろぞろとお客が集まるなんていうこともあったろう。それよりも、15世紀の教会音楽が演奏される典礼の場の状況はどうだったか。大教会に付随するサイド・チャペルで行われた「サルヴェの祈り」のような私的な典礼であっても、とおまきに見物・お祈りする人の群がりがあったことは容易に想像できる。そのような典礼の後にはきまって慈善事業として食料などが無料で配られたからだ。教会前の広場からは物売りの喧騒が聞こえてきただろうし、典礼に合わせて、あるいは無関係に教会の塔からは鐘の音がガンガン聞こえてくる。教会の向かいにそびえる鐘楼ではカリヨンがメロディを奏でている。聖歌隊が歌っている間祭壇前の司祭はぶつぶつと祈りの文句を唱えている。お香を炊くたびにがちゃがちゃと鎖があたる音がする。
 そして音楽はただ鑑賞されるためだけにあるのではなく、年間の暦、季節ごとの行事に密接に関連した生活の中で欠かせない多くの要素の一つだったし、特に宗教音楽は人々の切実な魂の願いを神に届ける道具だった。有名なファン・アイク兄弟によるヘントの「子羊の礼拝」を始めとする15世紀フランドルの祭壇画には、聖人たちが当時流行した衣装をまとって描かれている。天上のエルサレムを表した背景の風景にある街の様子は、どうみても、ヘントやブリュッヘに今も残されている中世フランドルの街並みそのものだ。天使たちが奏でる楽器は当時使われていたものを忠実に描写したものだし、絵の両端には手を合わせて拝む寄進者の姿が添えられている。しかしすべてはもちろん理想化され、美しい色彩で現実離れした構図に収まっている。祭壇画はその前で礼拝する人々、同時代の風景、そしてそこで行われている典礼、音楽を呑み込んで天界へとつなぐ魔法の扉のように見える。同じように、高度に訓練された歌手たちの歌うポリフォニーは、天使たちの声を地上に具象化するもの、あるいは現実の音によって祭壇の前にひざまづく人々の魂を天界へと高める、魔法の乗り物だっただろう。
 個室でデジタルな音を楽しむ状況とはかけ離れている。だが、当時と同様の役割を、この音楽が現代においても担えると、私は確信している。生活や宗教・文化の形態は相当異なっても、地理的・時代的にフランドルからは遠い現代日本の大都市のど真中においても。

c0067238_20392439.jpgワークショップの発表が終わり、開放感にひたるメンバーたちとレベッカ


カペラ・プラテンシスとレベッカ
 霊性の香りに満ちた音楽と、「この世」がうまく折り合わない実例に出くわすことになってしまった。他でもない恩師レベッカ・ステュワートが創立し育ててきた声楽アンサンブル「カペラ・プラテンシス」が、レベッカと手を切ることになってしまったのだ。アントワープで日本のカペラのみんなと聴いた演奏会が、レベッカ最後の演奏会だったことを打ち上げのときにメンバーから聞いた。
 最後の演奏会は、レベッカの音楽を精一杯表していることはわかったが、精彩に欠け、疲れのみえる演奏だった。そのような状況の中でいい演奏などできるはずがない。レベッカは全力を振り絞っていたと思うが、いつも教育に全身全霊をささげるがために、自分を省みずに使いすぎてしまう疲れ気味の彼女の声だけが、何とかいい音楽をしようと浮いてしまっていて、他の歌手はそれに応えきれていないという印象だった。
 レベッカは妥協しない。興行的にうまくいくために音楽への取り組みを変えることはしない。メンバーひとりひとりに技術的、精神的なアプローチを徹底させようとする。いわゆる美声で音程がそろっているだけのような音楽に、ほんの少しでも傾きそうな気配が感じられると厳しい口調で注意する。愛の化身のような人だけに、その言葉は歌手にとって重い意味を持つ。だから、時間もかかる、エネルギーもいる、誰か都合が悪かったら代わりの歌手をぽんといれるようなことは絶対にできない、要するに興行的には割が合わないのだ。プラテンシスの人たちはむしろ今まで良くやってきたと褒めてあげるべきなのだろう。プラテンシスの「経営陣」が新しくなったこともあり、いよいよもうやっていけない、ということになってきたのだという。
 打ち上げの際、会場近くの広場にテーブルを広げたカフェでおいしいベルギー・ビールを飲みながら、レベッカはしきりに日本から来た私たちと話をした。そして夜もふけて別れたとき、私たちを見送って自分の荷物を片手に持ったまま、いつまでも広場に立って手を振っていた。「あなたたちには迷わずにこの道を進んでほしい」という願いを託しているかのように。

つづき
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# by fons_floris | 2002-09-01 00:00 | カペラ
アントワープ便り II (4)
◆自然の歌声

 ヴェズレーの光
 アントワープでの怒涛のような日々が終わりほとんどのメンバーが先に帰国した後に、数日間フランスに立ち寄った。以前からあこがれていたブルゴーニュ地方にあるヴェズレーVezelayのロマネスク教会を見るのが目的だった。TGV(テ・ジェ・ヴェ、フランスの新幹線)の停まるディジョンに宿泊。ヘント、ブリュッヘといった14,5世紀ブルゴーニュ公ゆかりの地をまわったこの旅は公国のかつての首都へと続いてきたわけだ。壮麗な墓碑などを見学して、それまで単なる名前でしかなかった大公たちが、実体を伴って私の中に入ってくる。彼らの宮廷や当時の教会で奏でられた音楽を演奏しているのだから、スポンサーだったこの方たちに感謝しなくてはね。
 ブルゴーニュをまわるのに電車やバスではどうにもならないので、ディジョンでレンタカーを借りた。私は運転しないので、いつも助手席で地図とにらめっこ、「次を右!」などと指示を飛ばす(やっぱり仕切りやなのか)。オートルート(高速道路)を1時間半ほど走ったのち国道をしばらく行くと、緩やかな起伏に富んだ美しい田園地帯の小高い丘の上に、塔が二つが小さく見えてきた。あそこだ!

c0067238_2043848.jpgブルゴーニュをひた走る


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# by fons_floris | 2002-09-01 00:00 | カペラ