【花井哲郎】ハレ便り
c0067238_20193412.jpg雪こそ降らないものの、歩いていると耳が痛くてたまらなくなるほど寒い、旧東ドイツのハレで、2月末の一週間、ルネサンス音楽の恩師レベッカ・スチュアートのワークショップに久々に参加した。旧東ドイツ、などと言うところに、年がばれるかな。今回はレベッカの弟子で、ドイツ人の若者二人、マルティンとミロ、それに私の旧友で、いつも写本のコピーなどを送ってもらっているポール君が講師としてチームを組んでのワークショップだった。テーマはオケゲム。カペラではミサ3曲とモテット数曲をやったけど、もっと深めたいと思っていた作曲家だったので、1年に1回だけ取るようにしている長期休暇の半分近くを、これに充てることにした。

右の写真はハレの旧市街にある大教会(ワークショップの会場ではありません)



もう日本で活動するようになってかれこれ15年、演奏活動も頑張ってやってきているし、講座の受講生にも恵まれて、私自身いっぱしの先生だ。今さら何を親離れしない子供のように、昔の先生の所に行くのかとも思う。これから音楽をやっていこうというような人達が学ぶという、そういう意味でレベッカから学べるものは、もうそうはないかもしれない。私は私で自分の音楽を確立してきている。しかし、先生には会いたいし、ヨーロッパの若い人達に混ざって、また違った角度から新鮮なインスピレーションを得たい、という気持ちで何年かに一度は、結局いそいそと出かけていくことになるのだ。でも、何よりも、生涯の師、と慕える人に巡りあえたこと、そのことへの感謝の気持ちがものすごく大きい。そう思って時々私が会いに行くことに先生がとても喜んでくれることが、またうれしい。

それにしても、旧東西ドイツの格差が統一後20年を経た今でもまだ歴然としていることに愕然とする。ハレは周知のごとくヘンデルの生地、立派な大教会もある古都だが、廃墟と化した大きな建物も残り、中心地の旧市街以外ひと気も少なく、夜などまるでゴーストタウンかと思うほどさびしい。西側に人口が流出しているらしい。もちろん日本のようなコンビニなどないどころか、宿泊した近くにはレストランも商店街もない。買い物や食事には少々苦労した。

この機会に、アイゼナハから少し行ったところにある、人口3000人ほどの村で、カントール・オルガニストをしている日本からの知人に会いに行った。20年ぶりの再会だった。「オルガンと自然以外見るものは何もないよ」と言われて行ったが、まさにその通りのこぢんまりとした村で、二人で散歩している時も行き交う人達が、皆挨拶してくる。ドイツの村のカントール、素晴らしいオルガン、と、憧憬の念なくして考えられないが、彼なりの問題もある。小さな社会で、専横的で無理解な牧師に苦しめられ、村の人口は減る一方、聖歌隊は高齢化、レベルも低い上に、歌手が足りずにろくな歌が歌えない、それどころか聖歌よりドイツ式の故郷賛歌を景気よく歌いたがったりする、ポリフォニーなんて夢のまた夢、だそうだ。

牧師館に隣接するカントール専用の住居に住んでいる。部屋には鉱物がたくさん展示されていた。奥さんの趣味だが、東独時代に、西側に親戚が多いという理由で、国家機密に関わる地質学の勉強が許可されなかったのだそうだ。奥さんもこの村の出身ではなく、よそ者のカントール一家は村人たちにはあくまでよそ者扱いされるらしい。憧れの村のカントールもそれなりの苦悩を抱えていたのだった。二人のお子さんが快活なとてもいい子たちで、二人ともいろいろな楽器を演奏し、才能も豊かな様子、それが何よりの救いだった。


c0067238_20245364.jpgさて、折しもレベッカが70歳の誕生日を迎えたばかりで、その賑やかなパーティーの様子をメールで聞いていたところだった。「あなたももちろん招待したいところだったけど」ということで、ジプシーの音楽隊まで繰り出して音楽づくし、旧知が一堂に会したという集まりに参加できなかったことが悔やまれる。だが、このワークショップにも、参加者はドイツ人が多いとはいえ、オランダからも私の知人が何人か加わっていただけでなく、初対面のドイツ人やチェコからやって来た人達も、レベッカ歴が長い人も多く、いつしか旧知のような感覚になってしまって、レベッカを中心にしたファミリーのようでもあった。

何カ所かに分宿したが、同じゲストハウスに一緒になったのは私と同年配のオランダ人エド。初対面だったが、レベッカとは私と同様20年来のつきあいということだ。今まで出会わなかったのが不思議なくらい。フィリップスで長年技術者として働き、今は大規模なプロジェクトの立ち上げに関わっているという、音楽はアマチュアの、オランダ人にしては小柄な、落ち着いた紳士。改革派の家庭で、子供の頃は男ばかりの兄弟で食器の片付けをする間、お母さんが詩編歌を歌っていたという。

ワークショップでは、英語、ドイツ語、オランダ語が混ざり合って飛び交い、ぐちゃぐちゃ、音楽はフランス音楽で、とにかくフランスの響きを出せるようにということに主眼を置いているので、言葉の洪水でかなり消耗する。どの言葉も生半可使えるものだからなおさら神経を使う。宿に戻ってから一番慣れ親しんでいるオランダ語でエドとゆっくり話せるのが、ちょっとした息抜きになって、お互いよかった。私が父のお古の上着を着てきたので、そのことから、エドは、退職後間もなく亡くなってしまった自分の父のようにはなりたくないからと、ビジネスに多忙を極める自分の今の生活を考え直しているところ、と話してくれた。何だか、家のいろいろなものが同時に壊れ始めて、買い換えなくてはならなくなるし、離婚問題も抱えていて、仕事一本槍ではなく好きな音楽をもっと大切にしたいし、ということで人生の節目にあるらしい。繊細な感性を持った、ハートのある人だ。私よりはいくつか年上かな。同じくらいの年輪を重ねてきたことがお互い感じあえるから、いきなりこんな話にまでなったのかもしれない。

エドは、アマチュアとはいえ、なかなかの歌唱力のテノールで、古楽系のあらゆる分野を歌っていて、最近はバッハのカンタータでソロまで歌ったのだという。たまたま、ワークショップでも同じグループに組まれて、私とエドと、それに旧知のオランダ人マーシャと3人で3声のシャンソンに取り組んだ。その楽譜を準備したのはエドだった。現存する何種類かの写本のコピーをすべて揃えて、文献を読み込み、すぐに歌えるように写本に手を加えて綺麗に仕上げてくれていた。ルネサンス・フランドルのレパートリーにも精通していて、日本なら「おたく」を言われるかもね。オランダにももちろん、いるんだね、こういう人が。

ミサ曲の方は各パート二人の編成でいくつかのグループに分かれ、私はキリエとクレドのグループで、バッススを受け持った。とにかく今回は指導や指揮など一切せず、歌手として参加していればいいので、歌うことに専念できて、とてもよかった。日本では常にすべてに気を配りながら、リードしていかなくてはいけないので、一人の歌手として音楽できることの喜びを味わえる、このような場はとてもうれしい。また、そのようにして見えてくるものもたくさんある。マルティンもミロもとにかくよく指導してくれていたのでありがたかったが、それでも彼らの立ち居振る舞いを見て、自分の普段を反省することしばしばであった。

それにしてもこのふたり、本当にレベッカの髄の髄まで理解し、体得している。感心するばかりだ。マルティンは30歳くらい、ミロはまだ20代だろう。さすがドイツ人なので、理路整然きちんと説明できるし、指導も的確、説得力がものすごくある。レベッカのツボを完全に押さえている。今まで、このレベルに達したレベッカの弟子が何人いたことだろうか。

初日の晩に、講師4人による演奏会があった。ライプツィヒの荒れ果ててうらぶれた、しんしんと冷え込む教会で、私はその朝に日本から飛行機で疲労困憊して到着したばかり、外は氷点下、暖房のほとんど効かない教会の耐え難い寒さの中で何度もうつらうつらして、「寝たら死ぬぞ」状態だった。しかし演奏は、まるでレベッカが4人いて歌っているかのごとく、一心同体、レベッカが主張してやまない、モーダルな音楽を、つまり縦割りの和音の響きではない、旋法的、スピリチュアルな様式を完全に実現している。これはほとんど目眩がするような驚きだった。それが演奏として本当に素晴らしいか、自分もそのように演奏したいと思うか、これこそがオケゲムの真の姿なのか、そのあたりは簡単には言えないところがあるし、準備不足か怪しげな所もだいぶあった。しかしそんなことはどうでもいい、初めて、本当に初めて、レベッカが自分の音楽を実現した、その姿を見たのだった。

あとで話したのだが、エドもこの点は同感で、そのことにかなり感動した様子だった。エドはレベッカの所など、もう二度と来るものか、と思ったほど反感を持った時期もあったが、そのことをはっきりとレベッカに伝えて話し合い、その後そのような感情になることなく、折に触れてワークショップなどに参加しているということだった。もちろん、カペラ・プラテンシスを始め、レベッカの演奏は20年来繰り返し聞いている。その彼が私と全く同感だった。ワークショップも終わりに近づいたある日、オランダ3人組(私も一応その一人として)のシャンソンのレッスンのあとに、レベッカの「今回何を学んだか言ってみなさい」、という課題の元にだんだん薄暗くなってきた練習会場の教会で4人で話し込んでいた時、この演奏会のことを私が話題に出した。私とエドが口を揃え、「初めて、レベッカの音楽が実現されているのを聴いた」と称賛すると、70歳の恩師は、その長かった道のりを思って感極まり、「そんなこと言ってくれて、まだ生きていてよかった」と涙にむせていた。その様子をみて私たちもみんなで目頭が熱くなっていたのだった。

とにかく、「主流」な人々からは理解されない。デン・ハーグの音楽院で歌の部門からはずされ、やっとできたティルブルクの音楽院の自分自身の学科から追い出され、手塩をかけて育てた自分のアンサンブルからさえ追い出された。でもそんなことにはへこたれずに、こうあるべき、と思う音楽を、妥協を一切することなく、歌うことへの情熱と音楽への熱中と、弟子たちに対する深い愛情で、信念を貫き通して、伝え続けてきたその姿には、感服するばかりだ。そして、分かる人には分かる。レベッカの音楽はすばらしい。だから、音楽院を卒業した後も、何度も喧嘩しても、遠くチェコやフランスや日本からも、こうしてレベッカの元にみんな歌いに集まってくるのだ。そして涙にむせながら、これはすべて神への信頼があるからこそできるのだ、自分では何もできないし、自分から何かをしようとしてもだめなのだ、という言葉に、深い力強さを感じざるを得なかった。


それにしても、70歳は老人ではない。少なくともこの人に関しては。朝の9時からレッスン、リハーサルの連続、昼食もろくに取らずに、夜8時近くまで歌いっぱなし、しゃべりっぱなし、本当にひっきりなしにしゃべり続ける。そのあとさらに、まだやり残したことがあるからと主だった人を集めて、楽譜を囲んで歌いながらあれこれ話す。止まらない。まるで止まらない。毎日毎日、それが1週間も続く。寒い会場でついに風邪をひいてしまって、鼻じゅるじゅる、声は枯れはてて、ひいひいなのに、歌い続けることったら。お願いだから、もうやめてえ。こちらはとてもついていけません。夜の9時過ぎから、もう一度やっておきたいから、と誘われたリハーサルはさすがに断って、冷えた体をお風呂で温めることに。

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レベッカがこだわり続けていること、それは一体何なのか。以前の「便り」にも書いたと思うが、もう一度まとめてみよう。一番大事なのは、単旋律聖歌が世界の様々な聖歌の伝統と同じ、霊性に満ちた音楽であること。その響きを実現するには、これも世界の聖歌に共通していることで、とにかく鼻腔の響きがすべてである歌い方。レベッカはもともと民族音楽学者としてスタートしただけあって、そのあたりの知識と経験はとても豊富だ。音程をきちんとはめて、しっかりと鳴らして歌うのではなく、体中の筋肉をゆるめて、柔軟に、鋭敏に旋律の動きに合わせて反応させながら、音を決して固定しないで、音節から音節へと常に動きのある響きを作っていくこと。舌をだらりと前に出して、前歯から上のあたりで鼻腔への響きを作っていく。当てて鳴らすのではなく、ありがたく頂戴する、自分を開いて、鼻を一杯に空けて、開いて、響きを受け取るように作っていくという声の使い方。これは歌うことが、神と響き合うことになる、そのようなテクニックだ。

西欧中世の伝統のなかでは、これを一番うまく表現できているのが、フランス語圏の単旋律聖歌で、鼻母音と共に上に伸びていくイントネーション、かっちりと響きを止めずにリエゾンしながら柔軟に動いていくことが特徴的なフランス語が、まさに聖歌の歌い方にぴったり合っている。ひとつひとつの母音をしっかり鳴らしていくのではなく、空間の中にはじけるような子音と子音の間で、漂いながら次の音節を探し求めていくように動いていく母音の響き。もちろん残響の多い石造りの教会の音響がそこには欠かせない。残響をうまく利用すること。そしてそのような言語の特質を最大限に生かした歌い方をすることで、聖歌の本質が実現できるということ。

このフランス的な聖歌の伝統がジョスカンに到るまでのフランス・フランドルのポリフォニーの伝統の中に生きている。聖歌を歌うようにポリフォニーを歌うことで、和音の塊ではなく、ひとつひとつの旋律線が生き生きと動き回りながら、お互いに補い合い、絡み合って音楽を作っていく、ポリフォニーの真価が発揮できるということ。

自分の声が、他の人の響きを邪魔しない、もちろん張り合ったりしない。豊かな倍音の中に包み込んであげる。高い声部は下の声部の倍音の中に溶け込むような響きを作る。他の声部の動きを助けてあげるように、あるパートが休符のあとで歌い始める時などには、声でサインを出してそのタイミングを教えてあげる、導き入れるように自分の旋律を歌っていく。それができるためには、音を常に柔軟に動かしていくこと、小さいフレーズを、音節間をリエゾンするかのように繋いでいきながら旋律線を作っていくこと。これは「レガート」とは全く異なる音の繋げ方だ。

小さいフレーズは、ペンタトニック、五音音階を基本としたソルミゼーションで旋律を捕らえていくことで、見えてくる。特に半音を表すミファに敏感になること。不安定なミから、安定したファへ狭い半音の道を繊細に動いていくこと。ひとつひとつの音を歌うのではなく、二つ、三つの音程を、ひとつの動きとして捉えて流れるように表現すること。同じ四度でも上からソレと下りてくる音程と、ラミと下りる音程の微妙な違いを、ミファの半音を意識しながら感じ取ること。


16世紀にイタリア音楽が興隆していく中で、グレゴリオ聖歌とポリフォニーのこの歌い方の伝統は次第に消えていく。イタリア語は、裏表の少ない、よく響かせて、よく鳴らす言語だ。そういう意味でフランス語と対極にある。フランス・バロックにその片鱗が残るものの、やがて近代音楽の流れの中で完全に姿を消してしまう。18世紀初頭にフランス音楽とイタリア音楽の優劣をめぐって激論が交わされたということに、現代の私たちは驚くが、そこには音楽の様式を生み出した、このような言語の違い、それに基づく演奏法、歌唱法の違いがあるのだ。

だから、一般的なクラシックの音の作りになれている現代人にはふにゃふにゃした奇妙な軟体動物のように見えてしまう。コンサートホールなどのステージでは、まるで栄えない。だから、「主流」には理解されない。だけどこのような形で魂の共鳴を感じることのできる感性の人達が、何か吸い寄せられるようにこの音楽の元へ集まってくる。


レベッカは、もちろんフランス音楽以外の古い音楽にも精通しているし、それぞれの言語の違いを生かして、いろいろな時代、いろいろな国の音楽を教えている。だが、彼女にとって一番大事なのは、この中世フランスの、霊性あふれる響きなのだと思う。そしてそれを徹底的に教えるということが、彼女の生き方そのものであって、「いい演奏」をして拍手をもらうことなど、まるで眼中にないかのようだ。そういう意味で、演奏家、とは言えないかもしれない。そして、中世の音楽家たちはそういう意味での演奏家ではなかった。雇用者である貴族や高位聖職者たちのお気に召す必要はあったものの、そういう彼ら自身音楽に求めているのは魂の救いの響きだった。音楽家たちはそのために作曲し、歌っていた。

ワークショップの間中、恩師の言葉、歌声すべてに深く共感しつつも、「演奏家」としての自分のこと、東京での音楽の仲間達との演奏のこと、講座の受講生や聴衆のことを考え続けていた。私はレベッカから学び、うまく消化して自分の音楽を作りだしている。それは花井哲郎以外の何ものでもない、私はレベッカではない。だから同じ音楽にはならない。しかし彼女の徹底して純粋な取り組み方を見ていると、自分がどれほど妥協して音楽をしているか、それが痛いように感じられる。時代に妥協しているといえるかもしれない。この音楽を実現したいと思いながらも、仲間達の音作りにうまく合わせて、納得してもらえる範囲で音楽している。聴いてくれる人にわかりやすいように音楽を作ろうとしている。これは、すべて自分に妥協していることからきているようにも思える。「主流」にも受け入れてもらえるよう、自分自身を仕向けているのだろうか。

レベッカが自分のアンサンブルから追い出された最大の原因は、彼女のやり方ではいい録音ができないという点だった。デジタルに処理できる綺麗な音源を作るための演奏は、この音楽の本質と相容れない。常に声を動かし続けていたら編集なんてとてもできない。だから、音程をきちんと取り、安定した音を作ろうとする。そうすることで魂が抜けていってはいないか。カペラは7回の録音セッションを通して、成長してきた、と思っている。それは、より多くの人に、いい演奏と思ってもらえるようになってきた、ということではないかと思う。でも、それと引き替えに魂を売ってはいないか。大事なものを置き去りにしてしまってはいないのか。

困難な作業には違いない、もともと無理なことをしているのかもしれない。しかし私は挑戦し続けたいと思う。そして中世からの響きを、日本の空気の中に少しでもなじませながら、永遠への扉を少しでも開いていきたい。
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ワークショップの最終日はいつも発表会を兼ねた演奏会だ。ちょうど日曜日で、まず朝は練習会場としてお借りしていたルター派の教会の礼拝に参加、何曲か歌う。牧師さんは明るく元気な人で、心暖まるお説教だった。現代風の聖歌をギターを弾きながらリードしたりもしていた。この日は牧師さんのお誕生日ということで、そのおめでとうの歌も、礼拝の最後に歌った。実はこの日、私の誕生日でもあったのだ。3つ違いで私の方が年上。礼拝後のコーヒーの時間にそのことを牧師さんに伝え、二十歳の頃ルター派の神学校で学んだ思い出などを話した。普段ドイツ語を話すことなどあまりないのに、礼拝では30年を経たいまでも、主な祈祷の受け答えの言葉や、礼拝ごとに歌う聖歌などが口をついて出てくることに、我ながら驚く。

さて夕方に行われたささやかな演奏会は、牧師先生のおきまりの歓迎の挨拶で始まったが、その最後に、今日は演奏会をするのに一年で一番いい日、と自分の誕生日のことを言って笑いを誘ったのだが、実は演奏者の皆さんの中にもお誕生日の人がいるのだと言って、私を皆の前に呼び出して、祝福してくれた。おめでとうの歌をみんなが歌う中、いたいけな女の子が、蝋燭が一本灯ったケーキを皿の上にのせて運んできて、渡してくれた。牧師先生の粋な計らいですね。大勢の前でかなり照れくさかったが、何だか図らずも、思い出に残る誕生日となったのだった。

さて演奏そのものは、いろいろな人が参加しているので、まあ、そんなものでしょう、という感じ。怪しい所かなりあったな。でも全員がレベッカに学んだことを目一杯表現しようとしているようだった。私は普段は絶対にやらない、ファルセットを駆使したコントラテノールのパートを、3人のシャンソンで歌うので、柄にもなく緊張してしまった。これも勉強、勉強。しかし音楽も人生も、それぞれに経験を積んだオランダ組中年トリオならではの、味のある演奏になったのではないかと思う。皆さんに盛んにほめてもらえた。何だか学生に戻って発表会でほめられたようで、これも照れくさくも、いい年して喜んでいる自分がおかしいね。

というわけで、ほとんど普段の音楽活動の延長みたいで、考えさせられることも多く、とても休暇とはいえない一週間だったが、旧交を温め、新しい友人もたくさんできて、それなりに楽しめました。さあ、明日からは花の都パリ!思いっきり羽を伸ばしてきまーす。


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by fons_floris | 2011-02-27 23:00 | 花井哲郎
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